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読書について。

計算なんてふっとぶほどのかけがえのない存在『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ/辻村深月』ネタバレ感想

10年ぶりに再読。10年も経つと感想も変わる……というより、記憶力がないので覚えてなかった。ほぼ初見みたいなもの。

客観という呪い

私たちは、いつから大人になるのだろう。成人を迎えたら、就職したら、子供をもうけたら。
人によってさまざまに節目はあると思うけど、この本を読んで、世間一般で言う「大人になる」とは、「自分を客観視すること」が1つポイントになるように感じた。
チエミとみずほは対照的なキャラクターだ。物語の大部分で、チエミは精神的に幼い地方在住の腰掛OL、みずほは中学、高校、大学、社会人と順調に知識や考え方をアップデートさせた都会のキャリアウーマンとして描かれる。
みずほは自分自身のことを計算高いと自覚している。自分の立場を計算して、うまくふるまうというのは、自分を客観視していないとできないことだ。
自分が客観的にどのような立ち位置にいるかがわかっているからこそ、計算したふるまいもできるわけである。
そしてほとんどの人は、この客観視を身に着けて成長していく。
コミュニケーション能力の高い人は、この客観視が得意な人。
みずほもそうだが、みずほの夫の母は象徴的だ。客商売を営み、みずほの母の自慢話をそつなく受け止め、服装はさりげなくセンスがよい。
さりげなくセンスがよいって、相当難しいことだ。わかりやすくはなく、それでいてセンスがよいと思わせる程度に主張させている。
それを発信する人間も、受信する人間も、相当繊細な感覚が要求されるはず。こんな風に、服装や言動、果ては子供につける名前、すべてが「自分はこんな人間です」という発信になっているわけで、つまり、コミュニケーションをとっているってことだ。
洗練されたコミュニケーションができる人って、怖い。自分や相手がどんな発信をしているか、そしてどんな受信をしているか。情報を読み取ってうま~く取捨選択をしているからこそ、心地いい空間ができるのだ。ということは、相手が選択を誤ったとき、それに敏感に気づくということでもある。なんなら、相手が発信していることにすら気づかないものを受信できるってこと。怖くない……?
チエミは、自分が発信していると気づいていないものを、周囲の女友達に読み取られている。
昔よく一緒に合コンをしていた友達の政美は、そんなチエミを「見栄っ張り」「痛々しい」等と評するけど、自分を客観視する能力をある程度まで育てられなかった人間が受ける評価が「痛々しい」なのだ。はては、「気持ち悪いってことを認めさせたかった」とまで言われてしまう。余計なお世話すぎる。
一度獲得した客観は、なかなか自分の意思でなかったことにはできない。つまり、私たちはずっと自分を客観視しつつ生きていくわけである。
これは地獄だ。
だって、誰にとっても自分は「たった一人のかけがえのない存在」じゃないか。世界で誰よりも価値があるものじゃないか。それなのに、客観的に見たらただの取るに足らない一個人だ。価値なんてたかが知れている。
この矛盾を生涯抱えて生きていかなければいけない苦痛。客観視とは呪いのようなものだ。

かけがえのない存在

それでは、そんな自分を本当に「たった一人のかけがえのない存在」と認めてくれるのは誰だろうか。多くの場合は親じゃないかな。たぶん。
だからこそ、親が特別で大きな存在なんだね。
だけど、子どもの頃のみずほにとっては、そんな風に思えないほど母親への不信感や違和感があった。
みずほにとっては、チエミの母親こそが自分を肯定してくれる存在だったのだ。

「私は、みずほちゃんが好き。あんたは、いい子。何にも悪くないよ」
そう言われた。
空っぽの頭がじんじん痺れた。私は、理解していた。言ってはいけない、ということを。
おばさんが今、私を抱きしめて、よその子にこんな言葉をかけたことを。
うちのお母さんが私をピアノの部屋に呼ぶこと、怒るない世に、中にはおかしなこともまじってること。全部、誰にも言ってはいけない。なぜだかわからない。だけど、それはよくない、どれもが誰かを困らせることだ。

うわあー。私はこの感覚、すごく覚えがある。みずほの母親ほどではないけど、似たような記憶がある。きっと、みんな「あるある」って思うんじゃないかな……これを読んだ人に聞いてみたいな。
だって、親も人間だもの。そりゃ無理よ。いつもいつも正しいことだけきちんきちんと区別して子どもに言い聞かせるなんて、そりゃ無理よ。
とにかく、この出来事がみずほのコアな部分にまで突き刺さって、みずほは絶対にチエミの母親だけは裏切らない。
普段は自分の立場を計算していても、ことチエミの母親のこととなると、計算をかなぐり捨てて「チエミのお母さんが好き」と公言してはばからない。
みずほは周囲の女友達から、「チエミのことをかばってる」と言われるけど、それは結果的にそう見えるだけで、実際にはチエミの母親をすごくすごく大切に思っているから、チエミの母親にとって大切なチエミを大事に扱ってるように見える。
この物語は、ささやかな欺瞞や見栄や見下しあいにまみれているけど、そうした中で、誰かが誰かを純粋に思うときの気持ちが、まるで奇跡のように強く光っている。
そして私は、もうそれだけが本当に大切なことなのではないかと思う。
結局、人は自分が一番大切だけど、自分よりも他人を大切に思うとき、その人を自分よりも自分の核に置いている、ということのような気がする。
つまり、その人が失われてしまったら自分は自分ではいられない、ということ。
そしてそれこそがこの世で一番きれいな感情の形なのではないかな……と思う。
自分の核に置くものを増やしていくことが、大人として生きることなのかもしれない。
いや、大人とか子供とかではなく、人間として生きるってこういうことだろう。
だって、洗練された「大人」として存在するってことなら、その特徴を学習させたAIでいいもんね。