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死刑制度を正面から考えるとは『 雪冤/大門 剛明』ネタバレ感想

死刑判決が下った息子の冤罪を雪ぐためにがんばるお父さんの話。

死刑制度

死刑制度。普通に生きてたらあんまり意識しないと思う。私も全然ちゃんと考えたことなかった。
小学生の頃に、死刑賛成派か反対派かにわかれて討論をしよう、みたいな授業があった。
私は賛成派を選んだ。賛成派が少数派だったから。討論のルールとして、発言回数を平等にしようというものがあったのだ。少数派に属する方が発言回数を多くできた。 つまり、どっちでもよかった。 当時の賛成派の意見としては「人を殺した悪い奴は同じ目に遭わせてやれ」 反対派の意見は「冤罪があったらどうするのか」「外国も死刑廃止してる国が多い」 だった。 人が人を殺すことについての意見はなかったと思う。
死刑について、そんな発想はなかったのだ。
イメージとしては天罰。人が殺すことを決め、実際に殺すのも人だという意識がなかった。

よく死刑は報復の連鎖を防ぐために国家が代わって執行するといいますがこれは間違いです 。民主主義国家において国家とは国民です 。死刑は国民が国民を殺すのです 。正当防衛のような殺さなければ殺されるという状況でないのに殺すのです 。どう美化しようとただの殺人です 。

酷い事件を聞いたとき、私はつらくて悔しくてならなくなる。ちょっと探せばそんな事件はいくらでも出てくる。
犯人の人間性に吐き気がして、そんな奴は死刑にしろと言いたくなる。というか言う。
でも、ナイフや銃を渡されて、目の前にその犯人が拘束されて置かれ、罪にはならないから殺していいよと言われたら、多分、ぜったい無理だ。殺せない。
だけど死刑執行されたらきっとよかったなと思うだろう。
なんの違いがあるのだろうか?
もちろん全然違う。
死刑は肉を刺す感触も、苦悶の表情も、発する言葉も伝わってこない。自分の動作で人が死ぬ臨場感がない。
でも臨場感がないだけで、本質として違いがあるのだろうか?
かといって、じゃあ死刑廃止がいいかというと、…。
難しい。
昔読んだ小説を思い出した。
ある少年が、猟奇的な犯罪者に拉致られたが、勇気と機転で山の中で逃げ出し、逆に犯人を瀕死の目にあわせるのだ。 (彼は犯人を殺したと思っていた) そのあと彼は友人に言う。
「正当防衛だから罪に問われないだけだ。正当防衛だからって、人を殺していいわけがない」
これも小学生の頃に読んで、衝撃が大きかったのを覚えている。
緊急避難という言葉を知ったのもこの頃だった。
どんな理由であれ、人を殺すことがいいことなわけがない。
「仕方ない」と認められることがあるだけだ。
じゃあどんな場合なら「仕方ない」のか……。 「仕方ない」場合などない、というのもあるだろう。 小学生のあの討論の授業で、そういう風な議論をしたかったものだと思う。

泥まみれのパン

「普通 、我々は道端に落ちた汚いパンを食べようとは思いません 。ですが飢餓の場合ならどうでしょう ?それしかなければ食べるしかない 。大切な人を失った時 、我々はそういう状況に置かれます 。これが病気や自然災害なら泥まみれのパンすらない 。ですが犯罪は違う 。怒り苦しみをぶつけられる相手がいる 。本当は誰もそんなことはしたくないのに苦しみをぶつけられる相手がいてしまうんです 。それが泥まみれのパン … …必然がっつくことになる 。本当は被害者の方ももっとおいしいものを食べたいはずなんです 。それにそんなパン一切れでは餓死してしまう 」

ちゃんと噛まないと飲み込めない内容だとは思うけど、なんとなくわかる気がする……。
そもそも、殺されなければ喪う痛みも感じる必要がなかった、というのはあるけれど。
大切な人を喪う悲しみは深いものだろう。当たり前だ。何をもっても埋まることのない穴だ。
それが人に向かえば、死を望むしかなくなるのは必然だ。
だけど純粋に(?)犯人の死を望んでいるのではなくて、あくまでも悲しみを埋め合わせそうな対象、憎しみを向ける対象が分かりやすくそこにいるだけだ、と思う。
でもこういうことは当事者じゃないと語れないと思う。

綺麗事は誰にだって言えるんだから。

雪冤 (角川文庫)

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